【第六節】正しい宗教とはなにか
4. なぜ他の宗教を捨てなければならないのか
釈尊は、一代経の究極である法華経に、
「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」(方便品第二・開結124頁)
と仰せられるように、今まで説いてきた方便の教えを捨てて無上の教えである法華経を最高唯一のものとして説かれました。そしてさらに、
「余経の一偈(いちげ)をも受けざる有らん」(譬喩品第三・開結316頁)
と戒(いまし)めています。
末法においては、御本仏・日蓮大聖人が建立された南無妙法蓮華経の仏法こそ「文底本因妙(もんていほんにんみょう)の法華経」といって究極中の究極であり、すべての仏・菩薩(ぼさつ)をはじめ全世界の民衆を根本から成仏させる無上最高の真実法なのです。したがって真実の一法以外はすべて方便の教えであり、これを権教(ごんぎょう)ともいいます。権とは「仮(かり)」の意で、権教とは実教に対する言葉です。
人がもし「仮」の教えを真実のものと信じこんでその通りに実行したならばどうでしょうか。月収が来月から十倍になるという仮定の話をまともに受けて浪費をしたら家計はどうなるでしょうか。権教を信ずる人は、現実と遊離した架空仮定の人生を歩むことになるのです。
さらに日蓮大聖人は、
「『了義経(りょうぎきょう)に依(よ)って不了義経(ふりょうぎきょう)に依らざれ』と定めて、経の中にも了義・不了義経を糾明(きゅうめい)して信受すべし」(開目抄・御書558頁)
と教えられています。了義経とは完全無欠な教えであり、不了義経とは不完全な教えの経典のことで、日蓮正宗以外の宗旨、宗派はすべて不了義経にあたります。
どの宗教も一見もっともらしいことを説きますが、要するにうわべの言葉よりも何の経をよりどころとしているのか、教理が完全なものであるか、という点がもっとも大事なのです。一部分にありがたいことが説かれているからといっても、教理が不完全な宗教は、ちょうど外見も設備も立派であるが、エンジンが故障している飛行機のようなものです。このような飛行機に「良いところもあるのだから」といって、あなたは乗ることができるでしょうか。
また、正しい教え以外の宗教を「覆相教(ふそうきょう)」といいます。これは真実の教えを覆(おお)いかくす教えという意味で、不完全な宗教は正しい仏法を覆いかくし、迷わせる働きをするゆえにこれを除かなければならないのです。
ここを大聖人は、
「今の時は権教即実教の敵(仮の教えがすなわち実教の敵)と成る」(如説修行抄・御書672頁)
と仰せられています。
人々を救おうとする仏の真実の教に敵対する不完全な宗教は、人間を生命の奥深いところから迷わせ苦しめるものですから、これを悪法とも苦の因ともいうのです。
日蓮大聖人は、
「悪法世に弘まりて、人悪道に堕(お)ち、国土滅すべし」(頼基陳状・御書1129頁)
と説かれ、悪業による果報として、
(1)周囲の人々から軽蔑される
(2)みにくい姿に生まれる
(3)粗末な衣服や食べ物しか得られない
(4)財産を求めて努力しても得られない
(5)貧しく下賤の家や邪な家に生まれる
(6)不慮の災難や事故に遭う
(7)人間としての苦しみを常に味わう
と教えられています。
このように日蓮正宗以外の宗教は、人間を苦悩の底につき落とす悪法であり、仏の真意に背く権(仮)のものであり、人々をたぶらかす不了義経なのです。まさに薬に似た毒薬というべきでしょう。釈尊は、
「但(ただ)虚妄(こもう)を離るるを名づけて解脱(げだつ)と為す」(譬喩品第三・開結173頁)
と説いています。真実の幸福は、虚妄(いつわり)の教えを捨てて正法に帰依(きえ)することによって得られるのです。
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