【第五節】正しい信仰を求めている人へ
3. 特定の宗教への入信は人間関係をむずかしくするのではないか
「特定の宗教」とは日蓮正宗を指していると思われます。ひとことで言えば、日蓮正宗に入信することが原因になって人間関係を損ねるということはまったくありません。
もし特定の宗教に入信することが人間関係に支障をきたすというならば、宗教に限らず「特定の学校」に入ったら旧友と仲たがいするのでしょうか。「特定の会社」に入ったら友情にひびが入り、「特定の政党」を支持したら親子の断絶が生ずるとでもいうのでしょうか。
国籍が定まっている人は、「特定の国家」の一員であり、住所が定まっている人は「特定の地域」の住民です。このように国籍や職場・学校、あるいは政党に限らず、私たちは多くの「特定の」社会や集団・組織の一員として生きているのではありませんか。もし国籍も住所も不定であり、所属する職場や学校も定まらず、これといった信念も持っていないならば、その人はまったく信用されないでしょう。
これが宗教となると、特定の信仰を持つことがいけないような錯覚にとらわれるのはなぜなのでしょう。欧米の人々は自分がひとつの信仰を持つことに大きな誇りを感じ、堂々と自分が信じている宗派を披瀝(ひれき)します。ですから信仰を持っていない人間を心に深みとゆとりのない無教養の人として軽蔑するのです。「特定の宗教」といって、ひとつの信念を持つことを忌(い)みきらうような言い方をするあなたは、たとえば「私には心から尊敬している人がいます」というより、「私は誰をも尊敬しません」と答える方が、格好がよくて人間関係を損ねない利口な方法だと思いますか?
あなたが心配している「人間関係」とは、
(1)特定の宗教をもつと考え方や意見が食い違ってきらわれるのではないか
(2)信仰活動によって“つき合い”の時間がなくなるのではないか
(3)周囲から色メガネで見られたり、異端者としてのレッテルを貼られるのではないか
などの点であろうと思われます。しかし正しい仏法に帰依(きえ)して真実の人生を歩もうとすれば、周囲に一時的な変化があるかもしれませんが、いずれ信仰者の姿や言動を通じて周囲も理解を深め、以前にもましてよりよい人間関係が築かれることを確信すべきです。
実際にあった話ですが、非行グループに入っていた少年がひとつのきっかけで母親の願いを容(い)れて正法を信仰するようになったところ、いつしか悪友たちが遠ざかり、良い友達がふえてその少年は立派に更生した、ということです。
この少年に対して、あなたは「少年が信仰をしたために悪友との人間関係を損(そこ)ねたことはよくない」とは言わないでしょう。
もし周囲に宗教に無知な人がいるならば、こと宗教に関する意見や考え方にくい違いがあるのは当然ですし、その時は誠意をもって正しい仏法を持つことがどういうことかを教えてあげればよいのです。
日蓮正宗を信仰する人は、信仰によって培(つちか)われた生命力と快活な人間性を発揮して、正常な人間関係を積極的に作る人々です。現在世界の正宗信徒は信仰以外の分野においても、おのおのの社会、職場そして個々のつながりを大切にして、日夜向上を計って努力しているのです。
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