【第五節】正しい信仰を求めている人へ
5. 信仰を持つことによって、仕事がおろそかになるのではないか
あなたが心配される点には、次の二つのことが考えられます。
まず第一は、信仰のために時間が奪われ、そのしわ寄せによって仕事がおろそかになるのではないか、ということと、もう一つは、信仰することによって、努力をしなくても棚ぼた式に幸運に恵まれるものと信じて、仕事をおろそかにするのではないか、ということでしょう。
しかし日蓮正宗の信仰においては、こうした心配はまったく無用です。なぜなら日蓮大聖人の教えは、信仰だけしていれば、仕事をおろそかにしてもよいというような偏狭(へんきょう)なものではないからです。
私たちが仕事に励む目的は、自身の生活をより豊かにして、精神的にも物質的にも安定した幸せを得ようとするところにあるといえましょう。しかしそこに築かれた幸せは、恒久的なものとはいえません。なぜなら、たとえ仕事が成功して、経済的に裕福になったとしても、それは表面的な一時の結果であり、前世の善因にもとづく果報ですから、その果報が尽きれば、その福徳もつきるからです。
したがってその幸せを恒久的なものにするために、正しい信心が必要なのです。正しい信仰による果報は、今生の幸せはもとより、未来世への福徳を無限に積んで、永久に崩れない幸福となるのです。
日蓮大聖人の仏法に「世法即仏法(せほうそくぶっぽう)」という原理があります。これを広く社会全体の立場から見れば、「社会即仏法」ということになりましょうし、個人の立場から見るならば「信心即生活」ということになります。
この原理は、仏法が私たちの現実の生活を離れてあるのではなく、むしろ生活そのもののなかにあるということを示したものなのです。
日蓮大聖人は、
「まことのみちは世間の事法にて候。(中略)やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候」(白米一俵御書・御書1545頁)
と仰せです。これは、現実社会のあらゆる現象と仏法は一体であり、私たちの生活のなかに仏法の真理があらわされていることを教えられているのです。
現実の社会は「政治」や「経済」によって動いているといっても、それを動かす主体は人間にほかなりません。ゆえに日蓮大聖人は、妙法を受持し、純真に信仰を貫く人は、社会のあらゆる現象の実相を見極めていけることを、
「天晴れぬれば地明らかなり、法華を識(し)る者は世法を得(う)べきか」(観心本尊抄・御書662頁)
と教えられています。
「法華を識る」とは、正しい信仰によって、生命の永遠と、諸法の実相を見極める智慧(ちえ)を備えることであり、「世法を得べきか」とは、その智慧をもって仕事に励み、ひいては社会に対しても存分にその力を顕現し、充分に生かしきってゆくことができるという意味です。
ゆえに信仰と生活(仕事)の関係は、信仰は大地のようなものであり、生活はその大地に生える草木ともいえます。大地が肥沃(ひよく)であればあるほど、草木が大きく生長するように、正しい信仰を持つことによって、りっぱな見識と、洞察力を備えることができるのです。
こうした原理を踏まえた信仰をするのですから、時間はより有効に使われ、仕事もいっそう充実していくのです。信仰を持つことによって、仕事がおろそかになるようなことは、絶対ありえないことを知ってもらいたいと思います。
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