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【第三節】信仰を持たない人へ


2. 現実に神や仏がいるとは思わない


はじめに、神についていいますと、キリスト教やイスラム教で立てる天地創造の神ゴッドやアラーは、予言者と称されるキリストやマホメットが経典に説示しただけのことで、現実にこの地上に姿を現したことはありません。
天理教の天理王命(てんりおうのみこと)や金光教の天地金乃神(てんちかねのかみ)なども、教祖がある日思いついたように言い出したもので、この世に現れたことはありません。
また神社の中には、天満宮や明治神宮などのように菅原道真とか明治天皇などの歴史上の人物を祭っているところもありますが、これらは偉人を敬慕(けいぼ)する感情や時の政治的配慮などによって、人間を神にまで祭りあげてしまっただけのことで、神本来の働きをもっているわけではないのです。

本来、神とは原始的時代の自然崇拝の産物であり、宇宙に存在するさまざまな自然の作用には、それぞれ神秘的な生命、すなわち神が宿っているという思想に端を発しています。
したがって真実の神とは、ひとつの人格や個性を指すものではありませんし、神社などに祭られて礼拝の対象となるものでもありません。あくまでもすべての生き物を守り育むことに神の意義があるのです。
この神の力が強ければ人々は平和で豊かに暮らせるわけですが、仏法においては、神の作用は正しい法の功徳を原動力とし、これを「法味(ほうみ)」といい、諸天諸神が正法を味わうとき、仏の威光と法の力を得て善神として人間を守り、社会を護る力を発揮すると説いています。

次に仏についていいますと、仏典に説かれるたくさんの仏や菩薩たちも、ほとんどは歴史的に地上に出現したことはありません。身近なところでは、念仏宗の阿弥陀如来や真言宗の大日如来なども実在したことのない仏です。
ではなぜ架空ともいえる仏や菩薩が経典に説かれたのかというと、インドに出現した釈尊は法界の真理と生命の根源を説き明かすために生命に備わる働きや仏の徳を具象的(ぐしょうてき)・擬人的(ぎじんてき)に仏・菩薩の名を付けて表現されたのです。
たとえば智慧(ちえ)を文殊菩薩(もんじゅぼさつ)、慈悲を弥勒菩薩(みろくぼさつ)、病を防ぎ、癒(い)やす働きを薬師如来・薬王菩薩、美しい声を妙音菩薩というように、それぞれに名を付けられました。
これらの仏・菩薩は教主である釈尊の力用を示すために説かれたわけですが、釈尊は厳然とインドに誕生され、宇宙の真理を悟り、人々に多くの教えを遺(のこ)されました。釈尊の出現と経典に説かれる深義に疑いをもつ人はいないでしょう。
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この釈尊が究極の教えとして説かれた法華経の中に、末法に出現する本仏を予証されました。その予証とは、法華経を行ずるゆえに刀や杖(つえ)、あるいは瓦石(がしゃく)で迫害されること、悪口罵詈(あっくめり)されること、しばしば所払いの難にあうこと、迫害者の刀が折れて斬ることができないなどのことですが、この予言どおりに、うち続く大難の中で民衆救済のために究極の本法たる文底(もんてい)の法華経を説き、未来永劫の人々のために大御本尊を顕わされた御本仏こそ日蓮大聖人です。

日蓮大聖人はひとりの人間としての人格の上に本仏の境界(きょうがい/境涯)を現実に示されたのです。もしあなたが、仏は人間の姿をしたものではなく、金ピカの仏像や大仏そのものと考えて「そのような仏など実在しない」というならば、それはあまりにも幼稚な考えであり、ためにする言い掛かりというべきです。

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