【第一節】信仰に反対する人へ
1. 信仰と名のつくものはなんであろうときらいだ
私たちは、日常さまざまな判断をしながら生きています。善悪を考えて決断しなければならないときもありますし、損か得かを考えて行動したり、他人の評価を考慮して行動する場合もあります。
幼児の頃は誰でも、善悪や他人の評価などにとらわれず、好きかきらいかという自分本位の感情で判断し、笑ったり泣いたりします。
しかしその幼児も成長し、責任ある社会人になると、好き嫌いの感情による判断だけでなく、理性による判断、つまり物事の道理や善悪・利害などを考えて行動するようになります。
人間誰しも好ききらいの感情は生まれながらに持っており、どんな人でも好きになれない食べ物や飲み物は必ずあるでしょうし、一般に「医者嫌い」を自称する人も多いようです。しかし、医者がきらいだといっても、健康を損ねたり生命にかかわるケガをしたときは、身体を守るために医者にかからなければなりません。
私たちの周囲には、好ききらいで判断してよいことと、その反対に、さきほどの医者ぎらいのたとえのように、理性で正邪・善悪・得失・用否などを決定しなければならないときがあるわけです。
これをとり違えて用いたり、すべて好ききらいの感情で判断することは、きわめて幼稚な行動であり、危険なことでもあります。
もし、信仰が趣味や道楽あるいは一種の友好活動にすぎないものならば、好きかきらいかで判断し、きらいな人は近づかなければよいわけです。
しかし、正しい宗教とは、苦悩に直面している人に対してはもちろんのこと、それ以外の、特別の悩みがないという人に対しても、正しい生命観・人生観に立脚した真実の幸福を獲得する道を説いています。この正しい宗教を信仰することによって、私たちは個々の生命力をより生き生きと蘇生(そせい)させ、人生を力強く充実したものに変えることができるのです。
人生を木に譬(たと)えるならば、正しい信仰は根幹に当たるといえるでしょう。なぜなら正しい信仰が、人生の根源の力になるからです。
ですから、信仰を単に好ききらいで決めることは、自分の人生の根本を感情で決定することであり、賢明な方法ではありません。
また私たちの人生は、いつ、どこで幕を閉じるかわかりません。また、自分の真実の幸福は、家族や周囲の人々へ、そして社会の幸せにも通じていくのです。今日一日を正しい信仰によって生活することは、あたかも羅針盤を備えた船のように、幸福という目標に向かって正しく前進することになるのです。
どうか好ききらいにとらわれず、真実の仏法に耳を傾けて、信仰が必要なことを知ってください。
素直な心で仏の教えに触れるとき、あなたは人生でもっとも大切な宝を、今まで忘れていたことを痛感するでしょう。
目次 次の項目→