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【第三節】信仰を持たない人へ


1. 宗教の必要性を認めない


宗教を否定し、信仰の必要性を認めないという人の中には、感覚的に信仰を嫌う人もあれば、今までまったく無関心に生きてきたことによって、その必要性に気づかない人もあることでしょう。
しかし、ほとんどの人々は自分なりの信念を持って、日々努力を重ねて自分の一生を生きていけばよいと思っているようです。たしかに自分の信念と、毎日の努力によって一家をささえ、子供を育て、それなりの財産を築き、社会的な地位を得るということは、尊い一生の仕事であり、これとても、並たいていの努力でできるものではありません。

真実の宗教は、人間の生命を説き明かし、人生に指針を与えるもっとも勝(すぐ)れた教えですから、これを信ずることは仏の正しい教えによって、心の中に秘められた願いを成就し、私たちの持つ信念を、より崇高(すうこう)な信念へと高め、人間性をより豊かに、より充実したものに育(はぐく)むことになるのです。
たとえば山の中の小さな谷川をわたるのには、航海術を学ぶ必要はないでしょう。けれども、太平洋などの大海原を渡るには、正しい航路を知り、進路を定め、航海するための知識や技術がどうしても必要なのです。
私たちの人生にとっても、一生という長い航海には、仏の正しい教えによって航路を正し、自分を見きわめ、真実の幸せな人生という目標に到達するための知識や訓練ともいうべき、正しい信仰と修行が必要なのです。
真実の宗教を持たず、正しい信仰を知らない人は、あたかも航海の知識もなく、進路を見定める羅針盤(らしんばん)も持たずに大海原に乗り出した船のように、人生をさまよわなければなりません。

釈尊は涅槃経(ねはんぎょう)というお経の中で、信仰のない人のことを、
「主(しゅ)無く、親(しん)無く、救(く)無く、護(ご)無く、趣(しゅ)無く、貧窮飢困(びんぐきこん)ならん」
と説いています。
すなわち、正しい宗教を持たない人は、仏という人生における根本の師を知らず、正法の財宝(功徳)に恵まれない、心の貧しい人だというのです。
さらに長い一生の間には、経済苦や家庭不和や社会不安の影響などによって、深刻な悩みや苦しみが押し寄せてくる時もありましょう。少なくとも病苦・老苦・死苦などは、誰もが必ず直面しなければならないことなのです。

実際に自分がこうした苦悩に遭遇(そうぐう)した時のことを想像してみて下さい。はたして本当に自分の信念と努力で、このように悩みや苦しみを乗り越えることができるのでしょうか。少なくとも自分一人の力で、その苦しみのどん底からはい上がり、我が身の不幸を真実の幸せな人生へと転換させることは容易なことではありません。
まして一切の苦悩に打ち勝って、安穏(あんのん)な、しかも行きづまりのない自在の境涯を開拓して生きるなどということは、できるものではありません。

ここに、正しい信仰によっていかなる障魔(しょうま)にも負けない不屈の闘志と、仕事や家庭など人生におけるすべての苦難に打ち勝つ力を養うために、宗教の必要性があるのです。

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