【第三節】信仰を持たない人へ
8. 宗教は思考をマヒさせ、人間を無知にするのではないか
「宗教を信ずると、その宗教に没頭するあまり冷静な思考能力や批判力、判断力がマヒして、自分なりの理性を持てなくなるのではないか」という危惧(きぐ)をもつ人がいます。
たしかに、なんらの教義をもたない低級な新興宗教をはじめ、数多くの宗教は、たんに忘我(ぼうが)の境地や、あきらめることのみを教え、人間の思考能力をマヒさせています。ここに邪(よこしま)な宗教の恐ろしさがあります。
しかし、正しい因果の道理を説く仏教、なかでも法華経の教えにおいては、「聞(もん)思(し)修(しゅう)の三慧(さんね)」といって、仏道を成就するためには正法をよく聞き、思惟(しゆい)し、修行しなければならないと説いてます。
日蓮大聖人は、
「行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず」(諸法実相抄・御書668頁)
と教示されるように、正しい教えに則(のっと)り、修行と研学によって仏法の精神を求めることの大切さを説かれています。
また法華経を持つ者の功徳(くどく)の姿を示して、
「日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は明鏡(めいきょう)に万像を浮かぶるが如く知見するなり。此(こ)の明鏡とは法華経なり」(御義口伝・御書1776頁)
と説かれています。すなわち正しい仏法を信ずることによって、生命の本源が活動し、物ごとを正しく知見できるというのです。反対に間違った宗教を信ずる者や正しい仏法を持たない者は迷える心、煩悩(ぼんのう)の生命から物を見、考えているために、すべてを正しく見ることができないのです。まさに本心を失っているようなものです。
これについて日蓮大聖人は、
「本心と云(い)ふは法華経の信心の事なり。失と申すは謗法(ほうぼう)の人にすかされて、法華経を捨つる心出来(しゅったい)するを云ふなり」(御講聞書・御書1857頁)
とも説かれています。ここでいう本心とは、世間的な迷いの凡智ではなく、本仏本法によってもたらされる仏智(ぶっち)であり、人生においてもっとも大切な真実の幸福を確立する仏界の心を指しているのです。
ですから、真実の仏法とは、本心たる智慧(ちえ)の眼を開かせ、正しい人生を歩ませるための英知を、生命の根源から涌現(ゆげん)させるものであることを知るべきでしょう。
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