真実の仏法を知るために 真実の仏法を知るために

【第一節】信仰に反対する人へ


12. 現在は信仰するほどの悩みはない、いまの生活で満足だ


「信仰するほどの悩みはない」という言葉は、言い換えると「悩みのない人は信仰の必要がない」ということであり、信仰を正しく理解していないようです。
仏様がこの世に出られた目的は、仏知見(ぶっちけん)、すなわちいかなるものにも壊れることのない清浄(せいじょう)で自在の境地と、深く正しい智慧(ちえ)を、衆生に対して開き示し、悟(さと)り入(い)らしめるためであると法華経に説かれています。
そして法華経宝塔品(ほうとうほん)には、
「此(こ)の経を読み持(たも)たんは是(こ)れ真の仏子(ぶっし) 淳善(じゅんぜん)の地(じ)に住するなり」(妙法蓮華経並開結355)
と説かれ、正しい仏法に帰依(きえ)する者は真実の仏の子であり、清浄で安穏(あんのん)な境地に住することができると教えています。

日蓮大聖人も、
「法華経は現世安隠(げんぜあんのん)・後生善処(ごしょうぜんしょ)の御経なり」(弥源太殿御返事・御書723頁)
と仰(おお)せられているように、安穏な境地とは現在ばかりでなく、未来にわたるものでなければなりません。楽しいはずの家族旅行が一瞬にして悲惨な事故にあったり、順調に出世コースを歩んできた人が一時の迷いから人生の破滅を招いたりすることはしばしば耳にすることです。いまが幸せだからそれでよいという人は、よほど自分だけの世界に閉じ込もっているか、直面している問題や障壁(しょうへき)を認識できない人といわざるをえません。
私たちの周囲を見ても、世界では毎年何百万人もの戦争による死傷者が出ており、私たちが戦乱の渦中に巻き込まれないという保障はどこにもありません。また、家族や親戚の悩みはまったくないのでしょうか。子供の教育問題や親または自分の老後の問題などを考えても、「今の生活で満足だ」とのんびりしているわけにはいかないと思います。

日蓮大聖人は、
「賢人(けんじん)は安きに居(い)て危(あや)ふきを欲(おも)ひ、佞人(ねいじん)は危ふきに居て安きを欲ふ」(富木殿御書・御書1168頁)
と仰せられ、賢人は安穏な時でも常に危険に心を砕いているが、考えが浅くへつらうことばかり考えている人は、危険な状態になっても安逸(あんいつ)をむさぼろうとするだけであると説かれています。

今が幸せだということは、譬(たと)えていえば平坦な舗装道路をなんの苦労もなく歩いているようなものです。しかし長い人生には険しい登り坂もあれば泥沼の道もあります。その時にはより強い体力と精神力、そして適正な智慧がなければなりません。難所(なんしょ)にきてから「自分は平坦な道しか歩いたことがない」という人はむしろ不幸な人というべきです。どんな険難悪路(けんなんあくろ)に遭遇しても、それを楽しみながら悠々(ゆうゆう)と乗り越えてゆく力を持つ人こそ真に幸せな人というべきでしょう。
強い生命力と深く正しい智慧は、真実の仏法に帰依して信心修行を積まなければ決して開発されるものではありません。
どうか目先の世界や自己満足に閉じこもることなく、一日も早く正しい仏法を信じ、真に賢い人間となり、幸福な人生を築いて下さい。

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