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【第三節】信仰を持たない人へ


6. 学歴や社会的地位こそ幸福の要件ではないか


レッテル社会といわれる現代では、より安定した生活を送るためには有名校を卒業して大企業や官公庁に入り、重要ポストにつくことが幸福の要件と考えている人があります。
これについて二点から考えてみましょう。

第一の点は、はたして社会的な地位につくことが幸福の条件なのか、ということです。
最近、四十代、五十代の、いわば社会的に重要な地位にある年代のエリートが、仕事上の行きづまりや人間関係の悩みによってノイローゼになったり、自殺に走るケースが頻繁に起こっています。
現代の熾烈(しれつ)な競争社会の中で責任のある地位につくことは、それだけ大きな負担となり、身心ともに苦労も多くなることは当然です。
ではなぜ人々は苦労の多い地位を望むのでしょうか。その理由は、ひとつには人に負けたくない、人の上に立ちたいという本能的な願望であり、もうひとつには地位が向上すれば経済的に豊かになる、周囲から敬(うやま)われることなどが挙げられると思います。
もし願いどおりの地位についたとしても、それに適合しない性格であったり、負担に堪(た)える人間的な能力がなければ、その人は苦痛の毎日を送ることになるのです。

第二の点は、学歴至上主義がもたらす弊害(へいがい)と不幸がいかに大きいか、ということです。
たしかに一流大学を卒業した人は、それだけ幼いころから勉学に励んできた努力によって、能力的に優れています。深い学識と幅広い教養による英知はいずこの社会や職場にあっても、知的資源、人的資材として重要視されることは当然でしょう。
しかし誰もが一流校には入れるわけではなく、ごくひとにぎりの人だけが許される狭き門を目指して、過酷な受験戦争がくり広げられ、子供は友情を育むどころか、同級生を敵視する状態に追いやられています。
毎年受験シーズンになると受験に失敗して自殺するという悲惨な事件が相つぎますが、幼いころから親や先生の「有名校に入る人は優秀、入れない人は敗北者」という言葉を聞いて育ったならば、受験の失敗がそのまま人生の破滅になると考えるのは当然です。
まさに誤った学歴偏重の風潮が生む不幸の一面であり、その風潮の中で育った子供は、またさらに学歴偏重の人生観を増幅していくのです。
このような教育制度や教育行政のゆがみは教育の部分だけをとり上げて改革しようとしても根本的な解決にはなりません。なぜならば、教育問題は時代や社会機構全体と深く関わっており、さらには人生観・価値観ともつながっている事柄だからです。

釈尊は現代を予言して、末法は五濁(ごじょく=五つのにごり)の時代であると喝破(かっぱ)されています。五濁とは時代が濁り、社会が乱れ、人間の生命も思想も狂うことを指しており、その原因は誤った宗教にあると説いています。
したがって健全な人生観や社会思想は、ひとりひとりが正しい宗教に帰依(きえ)し、しかも正法が社会に広く深く定着したときに醸成(じょうせい)されるのであり、真実の幸福は表面的な学歴や肩書きによってもたらされるのではなく、真実の仏法を信仰し修行することによってもたらされるのです。

以上の二点だけを取り上げてみても、学歴や社会的地位がそのまま個人の幸福の絶対的条件になるわけでもなく、社会の福祉につながるわけでもないことがわかるでしょう。
真実の幸福とは、いかなる負担や困難をも悠々(ゆうゆう)と解決して乗り越えていくところにあります。個々の人間に生命力を与え、勇気と希望と智慧をもたらす道は、真実にして最勝の仏法を信仰し修行することに尽きるのです。
身につけた学識と教養、そして大きな責任をもつ社会的な地位、それらをより充実したものとし、より価値あるものとするために、正しい信仰が絶対に必要なことを知るべきです。

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