【第三節】信仰を持たない人へ
4.「さわらぬ神にたたりなし」で、宗教に近づかない方がよいと思うが
「さわらぬ神にたたりなし」」とか「参らぬ仏に罰は当たらぬ」ということわざは、信仰とかかわりを持たなければ、利益も罰も受けることはないとの意味ですが、一般には広くなにごとも近づかなければ無難(ぶなん)であるという意味に使われています。
たしかに間違った宗教には近づかない方が無難ですが、こと正しい仏法に対して、このような考えを持つことは誤りです。
釈尊は法華経に、
「今(いま)此(こ)の三界は皆是(こ)れ我が有(う)なり。其(そ)の中の衆生は悉(ことごとく)く是(こ)れ我が子なり。」(譬喩品第三・開結168頁)
と説かれ、世の中のすべては仏の所有するところであり、人々はすべて仏の子供であるといわれています。いいかえると、仏法とは文字通り仏が悟られた真理の法則ということであり、私たちは誰ひとりとしてこの真理の法則から逃れることはできません。
仏教では宇宙全体を指して法界(ほうかい)といいますが、日蓮大聖人は、
「法界一法として漏(も)るゝ事無き」(御義口伝・御書1789頁)
と仰せられ、仏が開悟(かいご/悟り開く)した法は、宇宙法界に漏れなくゆきわたっていると教えられています。
ですから信仰を持たなければ罰も当たらないというのは、警察署に近づかなければ罰せられることもないということと同じで幼稚な理屈であることがわかるでしょう。
もし正しい仏法に近づかなければ、真実の幸福をもたらす教えを知ることができないわけですから、それこそ日々の生活が、仏に背き、法を破る悪業(あくごう)の積み重ねとなっていくのです。
ましてや仏の慈悲は人を救い善導するところにあり、たたりなどあるわけがありませんし、罰といっても、我が子を導く手段として叱ることと同じで、それも親の愛情の一分であることを知らなければなりません。
その意味から考えても、罰が当たるから仏法に近づかないというのは、親や教師がうるさいからといってこそこそ逃げ回っている子供と同じことで、およそ健全な人間に育つはずはないのです。
いかに自分では信仰と無縁のつもりでいても、この世に生きている人はすべて、正しい教えによらなければ真の幸福を得られない存在であり、また仏の掌(たなごころ)の上で生きていることに違いはないのですから、自らの人生をより爽快なものとし、充実したものとするため一日も早く正しい仏法に帰依(きえ)することが大切なのです。
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