【第三節】信仰を持たない人へ
10. 現実生活をさげすみ、偽善的態度をとる宗教者がきらいだ
世間の数多い宗教家といわれる人の中には表面はいかにも聖職者らしく、俗界を超越した仙人か生き仏のように振舞い、世俗の人々を見下した態度をとる人がいます。
とくにキリスト教や戒律を重んずる宗教、新興宗教の教祖と称する人にこの傾向が強いようです。
しかし本当にこの世に生きる身で、世間を超越することなどできるわけがありません。それこそ「霞(かすみ)を食って生きる」ことなどできるわけがないのですから、もし世俗を超越したように振舞ったり、現実生活を蔑(さげす)む宗教家がいたならば、その人は明らかに偽善者であり、人々を欺(あざむ)いています。
涅槃経(ねはんぎょう)には、末代(末法の時代)の僧侶について、
「持律(じりつ)に似像(じぞう)して少(すこし)く経を読誦(どくじゅ)し飲食(おんじき)を貪嗜(とんし)して其(そ)の身を長養し、袈裟(けさ)を著(ちゃく)すと雖(いえど)も猶(なお)猟師の細めに視て徐(しずか)に行くが如く、猫の鼠を伺うが如し」
と説かれています。この意味は、表面は戒律を持(たも)ち少々の経を読んでいるが、内心は飲食を貪(むさぼ)り、我が身だけを案じていることは、あたかも猟師が獲物をねらって徐行し、猫が鼠を伺っているようなものであるというのです。
また一方においては、表面上のつくろいもなく、はじめから宗教を生活の手段とし、商売人になりきっている宗教家もいます。この種の人は、自己の修行研学はもちろんのこと民衆救済などまったく眼中にはなく、ただ欲心のみが旺盛な「葬式法事執行業」に堕(だ)しているのです。
これらの姿を見れば、宗教家を嫌うのも当然であろうと思います。しかし宗教家の中には堕落している者もいれば、正法を護持し清潔高邁な人格と慈愛を有する人もいます。一般の在俗の方でも同様に、周囲の信頼と尊敬を集める人とそうでない人がいます。この違いはなにに起因するのでしょうか。
日蓮大聖人は、
「法妙なるが故に人貴(たっと)し、人貴きが故に所尊し」(南条殿御返事・御書1569頁)
と仰せられ、人の尊卑(そんぴ)は受持するところの法の正邪によると説かれています。はじめは正しい心をもった人間でも、信ずるところの法が邪悪であれは、人間性も必ず濁(にご)ってしまいます。ですから、もしあなたが偽善的宗教家を忌(い)み嫌うならば、その元凶である邪教悪法を恐れなければならないのです。
結論からいえば、末法という濁悪(じょくあく)の現時における真実の本仏は、法華経文底秘沈(もんていひちん)の大法を所持される日蓮大聖人にほかなりません。
日蓮大聖人は、
「日蓮は日本国の人々の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし」(一谷入道女房御書・御書830頁)
と仰せられ、日蓮大聖人こそ、すべての人々を慈(いつく)しみ、守り、教え導く末法の仏であると明かされています。一切衆生を正道に導かんとする大聖人の慈悲の精神は、歴代の法主上人に受け継がれて日蓮正宗に伝えられています。
日蓮正宗は、小乗教のような戒律宗教でもありませんし、聖人君子になるための宗教でもありません。正宗の僧俗(そうぞく)はともに正法たる大御本尊を信受し、行学に励み、真実の平和と福祉社会の実現を目指して日夜精進しているのです。
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