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【第二節】他の信仰をしている人へ


8. 他の宗教によって現実に願いがかなったので信じているが


日蓮正宗以外の宗教を信じ「商売がうまくいった」とか「病気が治った」という人がいます。また日蓮正宗に入信しても、初めは周囲の反対や人間関係などで苦労する人もいるかもしれません。
しかし、正しい仏法とは私たちに正しい本尊と修行を教え、身心両面にわたって育成錬磨し、究極の目的である仏の道を成就(じょうじゅ)させることを目的としています。
正しい仏道修行をすることによって、いかなる苦難や障害がおきてもそれを乗り越えていける人こそ真に幸せな人なのです。困った時だけ拝み屋のような宗教にすがって一時しのぎの解決をしても、それは人生の本質的な幸福につながるものではありません。
たとえば、勉強をしない子供に試験の時に答えだけを教えて、よい点数をとらせたからといって、その子供の学力が向上することにならないと同様なのです。
もし現在、悩みがあったとしても、善因(ぜんいん)を積んで善果(ぜんか)を生ずるように、その原因をよく知って、正法正義(しょうぼうしょうぎ)に帰依しなければ真の解決にならないことを知るべきです。

また、低俗な宗教によって悩みが一時的に解決したからといって、それが人生のすべてに通用し、人生の苦を根本から解決できることになるわけではありません。むしろ苦難に遭った時に努力することを忘れて一時の神だのみに走ることだけが身についてしまうでしょう。それはその人にとって決してよい結果とはいえません。

悩みや問題はひとそれぞれにさまざまですが、その人の生い立ちや周囲の縁、年齢や心がけなどによって解決のかたちもまた異なっています。
たとえば、種をまいても直ちに花を開かせることはできませんが、時が至れば必ず開花するように、時と機が熟さなければ解決しない場合もあるのです。
また誤った宗教に縁することによって、願いがかなったこと以上に生命が汚染され、将来大きな苦しみを生ずる業因となることをよく認識すべきです。

日蓮大聖人は、
「又(また)一分のしるしある様なりとも、天地の知る程の祈りとは成るべからず。魔王・魔民等守護を加へて法に験(しるし)の有る様なりとも、終(つい)には其(そ)の身も檀那(だんな)も安穏(あんのん)なるべからず」(諌暁八幡抄・御書1531ページ)
と仰せられ、一時的に祈りがかなったように見えても、邪宗教によるものは、正法を隠蔽(いんぺい)しようとする魔の所為(行い)にすぎないと説かれています。
そして正法による祈りについて、
「大地はさゝばはづるるとも、虚空(おおぞら)をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」(祈祷抄・御書630頁)
とも述べられ、人生根本の大願たる成仏も、強い信心によって必ずかなうと教示されています。

また日蓮正宗総本山・第26世日寛上人も、日蓮大聖人建立の大御本尊の利益(りやく)について、
「この本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則(すなわ)ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり」(観心本尊抄文段・文段集443頁)
と仰せられています。
真実の祈りは、正法正義(しょうぼうしょうぎ)による仏道修行によってかなうのであり、低俗な宗教によるならば、かえって苦しみを増すことを知るべきでありましょう。

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