【第一節】信仰に反対する人へ
4. 宗教によらなくても、自分で幸福だと思えばよいのではないか
一般に、どのような境遇(きょうぐう)にあっても、人間の幸不幸は所詮(しょせん)その人の心の持ち方・考え方によって決定されるのだから、宗教に頼るよりも、心に「自分は幸せだ」と思うことが大切である、という考え方があります。
このような考え方は、一見もっとものようですが、現実的には人間本来の「心」を知らない理想論であり、これを実行するとなると危険がともないます。なぜかといいますと、私たちの心は時にふれ、折にふれて、ある時は喜び、ある時は悲しみ、怒り、そして安らぐというようにさまざまに変化します。その変化は心だけでなく、顔つきや態度に現われます。なぜ私たちの心がさまざまに変化するのかといいますと、周囲の環境世界(これを縁(えん)といいます)に触れることによって、私たちの生命(身心両面にわたる人間全体の働き)に、本来潜在的に具(そな)えている十界三千(じっかいさんぜん)といわれるさまざまな働きの一部分が瞬間瞬間に反応するからなのです。
私たちの内なる心と外界を結ぶ窓口が、眼(げん)、耳(に)、鼻(び)、舌(ぜつ)、身(しん)の「五根(ごこん)」です。外界の色彩や物質は眼根(げんこん)を通して心に伝えられます。音は耳根(にこん)により、香りは鼻、味は舌、冷暖・柔剛などは身体の皮膚感覚によって心に伝達されます。これらの情報を受けた心(意根/いこん)は、これを識別して好悪・喜怒などの反応を生ずるわけです。
人間は自分の心に適(かな)ったり満足した時に幸福を感じますし、反対にきらいなことが続いたり、不快なことが直接我が身にふりかかった時に不幸を感じます。これは人間として本能的なものであり、きわめて当然のことです。
それを「どのような場合でも幸福を感じ続けよ」と心に強制することは、あたかも身に危険を感じても安全だと思えということと同じであり、黒いものを見て白いと思えということと同じです。このようなことは現実に、正常な人ができるわけがありません。「心」は目に見えませんが、肉体と同様に疲労や倦怠(けんたい)もあれば許容の限界もあるのです。
もし身体を鍛えていない病人に、いきなり何十キロもある荷物を背負(せお)わせたとしたらどうでしょう。おそらく立つことはおろか、大けがをしてしまうでしょう。同じように心の鍛錬・修行を積んでいない人に対して、「どのような境遇にあっても、いかなる縁(えん)に接しても、自分は幸福だと思わなければいけない」と強要することは、極度の心理的重圧を加えることになり、ついには二重人格や精神分裂症(統合失調症)などを引き起こすことにもなりかねません。
このような、人間生命の本質を知らない誤った幸福感は、一個人の主義・主張にとどまらず宗教の教義の中にも見られます。その一例を挙げますと、「心によって病気が起きるのだから、治ったと思えば病気が治る」と説く「生長の家」や、「汝(なんじ)の敵を愛せよ」などと矛盾した美辞麗句を並べる「キリスト教」があります。
これらは、宗教本来の利益(りやく)によって現実に救済する力もなく、衆生(しゅじょう=民衆)を加護する力もなく、単に衆生に対して「思いこみ」を押しつけているだけの宗教といわざるをえません。
これに対して真実の宗教とは、宇宙法界の現証と真理のすべてを達観した本仏によって説き示された教えであり、広大な功徳力(くどくりき)を具(そな)えた本尊を信じ、修行を積むことによって、清浄にして不動の心(法身/ほっしん)を発揮し、深い智慧と慈愛に満ちた人間性(般若/はんにゃ)を開発し、人生を自由自在に遊楽(ゆうらく=解脱/げだつ)させる働きがあるのです。
このことを日蓮大聖人は、
「法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦(く)の三道(さんどう)、法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳(さんとく)と転じ云々」(当体義抄・御書694頁)
と仰せられています。
真実の幸福とは、観念的な「思いこみ」や「ひとりよがり」ではなく、正しい本尊によって自己の内面から健全な生命を涌現(ゆげん)させ、修行によって深い智慧と苦難を克服する心を養い、仏力・法力によって守護される安心立命(あんしんりつめい)の境涯(きょうがい)をいうのです。
何ものにも崩されない絶対的幸福、それは正しい宗教によってはじめて得られることをよく知るべきです。
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