【第二節】他の信仰をしている人へ
15. 邪宗という呼び方が気に入らない
邪宗という言葉は日蓮正宗の人が、やみくもに他宗を攻撃するために勝手に使っているのではありません。
釈尊は法華経に、
「正直に方便を捨てて但(ただ)無上道(むじょうどう)を説く」(方便品第二・開結124)
と、四十余年にわたって説き続けてきた方便の経経を捨てることを説き、これ以後に説示(せつじ)する法華経こそ最高唯一の無上道(最高の教え)であると言われています。
また方便の経経に執着していた弟子の舎利弗(しゃりほつ=釈尊十大弟子の一人)は自ら、
「世尊(せそん=釈尊)我が心を知しめて、邪を抜き涅槃(ねはん)を説きたまいしかば、我れ悉(ことごと)く邪見を除いて空法(くうほう)に於いて証を得たり」(譬喩品第三・開結132)
と述懐(じゅっかい)していますが、ここにも低級な教えによる考えを「邪見」と称しています。
また、日蓮大聖人は末法の教主として、
「正直に権教(ごんぎょう=仮の教え、方便)の邪法邪師の邪義を捨てヽ、正直に正法正師の正義を信ずる」(当体義抄・御書701頁)
ことが、もっとも大切であると教えています。
これらのことからも、邪宗・邪法などの言葉は仏の経説にしたがって使用していることがわかると思います。ではなぜ他の宗派に対して、攻撃的なしかも刺激の強い邪宗という呼び方をするのかといいますと、個人の苦しみや社会の不幸はすべて邪(よこし)まな宗教が元凶となっているからであり、言いかえると誤った宗教、低劣な教えがこの世の不幸の種だからです。
昭和二十年に広島市と長崎市に投下された原爆は一瞬のうちに何十万人という市民、それもなんの罪もない子供や老人まで無差別 に殺戮(さくりく)しました。
いま私たちが、核兵器の行使が悪魔の所業であると叫び、この憎むべき不幸を二度とくり返してはならないと訴えるのは当然でしょう。そしてその不幸の原因が戦争であり、戦争は人間社会の誤った思想によって誘発されたことを考えますと、誤った思想が何十万人、いな世界大戦で戦死した人を含めると何百万人、何千万人の命を奪ったことになるのです。
このような殺人思想に対して、邪教・魔説と指弾することは言いすぎでしょうか。失礼に当たるから控えるべきなのでしょうか。
涅槃経(ねはんぎょう)の経文に、
「悪象のために殺されては三趣(さんしゅ)に至らず、悪友のために殺されては必ず三趣に至る」
と説かれています。この意味は災害や事故によって命を失っても地獄・餓鬼(がき)・畜生というもっとも苦しむ状態にはならないが、誤った教えを信ずるものは死して後に必ず三悪道(三趣)に墜ちて永劫(えいごう)に苦しみ続けるということです。
一切の不幸の元凶となる誤った宗教は、あたかも覚醒剤や麻薬のように、本人も気付かないまま、いつしか次第に身も心もむしばみ人生を狂わせていくのです。
正しい仏法に目醒(めざ)めた私たちが、誤った宗教を不幸の根源であると破折(はしゃく)し、邪宗と称することは、悪法に対する憤(いか)りであり、今なお知らずに毒を飲んでいる人に対する警告の表れでもあるのです。
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