【第三節】信仰を持たない人へ
7. いまが楽しければそれでよいではないか
「いまが楽しければ」という言葉のひびきには、まったく将来のことを考えず、苦しみを避けて、いまの楽しみばかりを追い求めるというニュアンスが感じられます。それはおそらく、若いときの楽しみは若い時にしか味わえないという考えから、一時の快楽に陶酔のひとときを過ごす若者たちに共通した考えかたであると思います。
その反面、いまの楽しみより将来の楽しみを目指して、つらさに耐え、少しでも自分のもてる能力や才能を伸ばそうと、懸命な努力を重ねている若者たちも、けっして少なくありません。
安易に目前の快楽のみを求める若者たちの行きかたは、蟻とキリギリスの寓話(ぐうわ)の教訓をまつまでもなく、苦労を続けながらも真剣に生きている多くの人たちに比べて、あまりにも人間として分別 のない、しかも後に必ず苦しみと後悔をともなう生きかたではないかと思います。
だからといって、人間は若いときには何が何でも苦労ばかりをして、楽しみなどを求めてはいけない、というのではありません。青年の時代こそ、人生を真に楽しんで生きていくための基盤を、しっかりと築き上げる時であると言いたいのです。
「楽しみ」というものの本質について、仏教では、五官から起る欲望を五識によって満たし、意識(心)にここちよく感ずることであると明かしています。五官とは、眼(視官)・耳(聴官)・鼻(嗅官)・口(味官)・皮膚(触官)をさします。
すなわち、眼にあざやかな色形を見る楽しみ、耳にここちよい音や響きを聞く楽しみ、鼻にかおりのよいものを嗅(か)ぐ楽しみ、口中の舌においしいものを味わう楽しみ、皮膚(身体)にここちよいものが触れる楽しみを欲するところを五欲といい、五官によって判断することを五識といいます。
要するに、人間の楽しみのほとんどは、この五欲の一つ一つが満たされるか、そのいくつかが同時に満たされるかの度合いに応じて起こる情感であることがわかると思います。
したがって五欲そのものは、けっして悪いものではありません。しかしそこに、人間の煩悩〔ぼんのう=貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)などの迷い〕が働きかけた時、はじめて五欲は、無謀(むぼう)性を発揮し、欲望の暴走となってあらわれたり、意のままに満たされない不満がつのって、怒りを感じたり、落胆のあまり自暴自棄になったりして、自分や社会をめちゃめちゃに破壊してしまうことにもなりかねないのです。
五欲とは、ちょうど火のようなものだといえます。火そのものは悪でも善でもありませんが、私たちの使いかた如何(いかん)によっては、生活に欠かせない便利なものにもなる半面 、不始末などがあれば、すべてのものを一瞬のうちに灰燼(かいじん)にしてしまう、ということにたとえられるでしょう。
いわば、一時の快楽を飽きることなく求める若者たちは、煩悩の働きがそれだけ旺盛だともいえましょう。その旺盛な煩悩の猛火をそのまま自分の将来の幸福と社会に役立つ有益な火に転換させるところに、正しい宗教と信仰のもつ大きな意義があるのです。
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