無宗教主義
皆さんは「宗教」「信仰」について、どのようなお考えをお持ちでしょうか。
日本人の場合、多くの人は無宗教を自負し、宗教の存在意義を否定し、単に好き嫌いの感覚で信仰を排除し、信仰などする必要はないと言う人がとても多いのではないでしょうか。
しかし無宗教といいながら、毎年の初詣には神社仏閣に足を運んで手を合わせ、結婚式はキリスト教の教会で挙げ、そして亡くなったときには先祖代々のお寺に葬儀・法事を頼むという、誠に奇っ怪な感覚の人々が多いのも事実です。
釈尊(お釈迦様)は『涅槃経(ねはんぎょう)』というお経文の中で、信仰のない人のことを、
「主無く、親無く、救無く、護無く、趣無く、貧窮飢困(びんぐきこん)ならん」
と説いています。
つまり「正しい宗教を持たない人は、仏様という人生の根本の師を知らず、もっとも慈愛深い親を持たず、したがって仏様の救済もなく、護(まも)られることもなく、何を目的として生きるのかも知らず、正法(しょうぼう)の財宝(功徳=くどく)にも恵まれることのない、心の貧しい人である」と説かれているのです。
正法と邪法の分別
問題なのは「正しい法に巡り会い、信仰することができるか」という点です。
宗教を嫌う人々の中には過去に新興宗教等を信じて嫌な思いをし、それによって「もう宗教など信じない」と無信仰となっている方々もいます。
日本には現在、数十万ともいわれる宗教団体が存在しますが、そうした魑魅魍魎(ちみもうりょう)が暗躍する中で、正と邪を見極め、正しい信仰に巡り会うことは極めて困難です。そして宗教の正邪の分別は、親も学校も、社会の誰も教えてはくれません。
日蓮大聖人様は、
「さればこの経に値(あ)ひたてまつる事をば、三千年に一度花さく優曇華(うどんげ)、無量無辺劫(むりょうむへんこう)に一度値ふなる一眼の亀にもたとへたり」
と御教示されています。
これは、「この正法である法華経に巡り会うことは、三千年に一度だけ花の咲く優曇華の花を見ることや、大海原で無量無辺劫(想像を絶する長遠な期間)に一度だけ、自分の体を休めることのできる大きさの穴の空いた浮木に一眼の亀が出会うほど難しい」ということです。
自身の体験から邪宗教を嫌うのは良いのですが、本物の正しい信仰までいっしょにして排除してはなりません。宗教はどれも同じではないのです。
邪宗教に惑わされ正法を失う
無宗教を標榜する人々が多い一方、新興宗教等の邪宗教に傾倒し、それこそが真実の宗教であると信じてしまった結果、本当の正しい仏法を信ずることのできない人々もまた多くいます。
俗に「朱に交われば赤くなる」と言います。真面目だった人が悪い友人らと付き合ううちに、次第に悪い方向に変化してしまうように、邪宗教の邪(よこしま)な本尊を拝み交われば、自分でも気が付かぬうちに、その邪に染まってしまいます。そして最初の一時は「こんな世界があったのか」などと未知の世界に触れた喜びを感じたり、また教祖の祈祷で病気が治るなどの一時的な小さな利益(りやく)などもあり「すばらしい宗教だ」などと思っていると、次第にその害毒によってさまざまな苦しみを受けることとなります。
「宗教はどれでも同じ」ではありません。宗教には厳として低い教えと高い教え、浅い教えと深い教えという客観的な分別があります。いかに人類の幸福だの世界平和だのと高邁なことを言っていても、低くて浅い、誤った本尊・教義の邪な宗教を信ずれば、それを原因として必ず不幸な結果を招くことになるのです。
こうした方々にはぜひ当サイトの姉妹サイト『百禍繚乱』もご覧いただきたいと思いますが、邪宗教と呼ぶにはそれだけの理由があります。自分の宗教は本当に正しいのか、今一度冷静に、客観的に考察してみてはいかがでしょうか。
どんな人でも、幸せな人生を望んでいます。自ら不幸になりたくて生きる人など存在しません。
正しい信仰は、私たちに最高の利益(りやく)と崩れることのない幸福、そして勇気と希望を与えてくれるものです。真の幸せを求めるのであれば、それは正しい信仰を持つ以外にはないのです。
しかし真実の正しい仏法に出会うことは、先述のとおり大変難しいことです。このサイトがそのほんの一助にでもなれば、これ以上幸せなことはありません。