正しい信仰を求めている人へ 正しい信仰を求めている人へ

【第五節】正しい信仰を求めている人へ


11. 宗教は教団の金もうけにすぎないのではないか


ご指摘のとおり、昨今の宗教界の乱脈ぶりは目を覆(おお)うばかりです。ほとんどの教団は、民衆救済と社会平和の実現という宗教本来の使命を忘れ、本尊や書籍、守り札、祈祷(きとう)などを売りものにして、金儲けに専念している現状です。
ひどい教団になると、教義がらみで信者にお金を出すよう強制します。
たとえば目を患(わずら)っている人に対して、「目の玉は丸いでしょう。目の因縁を切るために、丸いもの(お金)を供えなさい」、また足の悪い人には「足は〔おあし=お金〕に通じるから、お金を上げればよくなります」などとまったく人をばかにした「ごろ合せ」や「こじつけ」で無知な人を騙(だま)しています。
もっと悪質なものになると、「欲心があなたを不幸にしているのだから、欲心を棄(す)てなさい。そのためにはあなたの財産を神さまに捧(ささ)げることです」などと言葉巧みに、全財産を教団にまき上げられた例もあります。
こんな宗教は明らかに金儲けを目的としたものですから、近づかないほうが無難です。

では、宗教団体が資金を持つことは悪いことなのかというと、それも誤った考えです。教義を研鑽し、修行し、布教するためには、それを賄(まかな)う資金がなければなりません。
仏典には、菩薩の修行として貧者に物を与える布施行(ふせぎょう)が説かれておりますし、衆生が仏や法に対して、報恩の念をもって金品を供養することを、積功累徳(しゃっくるいとく)の行いであると賞賛しています。
供養とは自分にとって大切な宝を仏様に捧げることであり、これには蔵の財・身の財・心の財の三種がありますが、日蓮大聖人は、
「蔵の財(たから)よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり」(崇峻天皇御書・御書1173頁)
と仰せられ、信心という心の財を根本にすることを教えています。

「日蓮正宗の信心はまったくお金がかからないのか」という声を聞きますが、常識的に考えても、信仰するためには数珠や経本、仏具、書籍などの費用は必要です。また御本尊に対する自発的な供養や先祖回向の塔婆供養なども、信仰者として当然なされるべきでしょう。
しかし、日蓮正宗では本山はじめ各地の末寺でも、賽銭箱(さいせんばこ)などはいっさいありませんし、他宗徒からの供養は仏の本意に叶(かな)わないとして、まったく受け取らないのです。また葬儀、法事などにおいても「お経料」とか「戒名料」もありませんし、他宗のように供養の額を定めて請求することなどもありません。
日蓮正宗はひたすら正法を純粋に守り、弘教し、真の幸福と世界平和の確立を目指して実践している唯一の宗団なのです。

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