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【第二節】他の信仰をしている人へ


2. 宗派は分かれているが、到達する目的はおなじではないか


「宗派は別でも宗教の目的は同じなのだから、どの宗派でもよいのだ」と主張する人の中には、「分け登る 麓(ふもと)の道は多けれど 同じ雲井(くもい)の月をこそ見れ」という歌を引き合いに出すことがあります。しかし、これはあくまでもひとつの古歌(こか)であって、実際は同じ麓の道でもひとつは他の嶺(みね)に至るもの、別な道は山ではなく池に至る道かもしれません。なかには命を落とすような危険な谷に通じている道であるかもしれません。ですから歌やことわざにあるからといって、それを証拠に宗教を論ずることはできません。

いま各宗派の教義をみると、教主も本尊も修行も経典も、それぞれまったく異なっています。
キリスト教はイエスキリストによって神(ゴッド)が説かれ、バイブルを教典としておりますし、イスラム教はマホメットによってアラーの神への帰依(きえ)が説かれ、コーランを所依(しょえ)の教典としています。儒教(じゅきょう)は孔子(こうし)によって道徳が説かれており、仏教は釈尊によって三世(さんぜ=過去世・現在世・未来世)の因果律(いんがりつ)という正当な原理を根本として、人間の生命とその救済を説かれたものです。
しかも同じ仏教の中でも、小乗教は劣応身(れっとうじん)という仏を教主として戒律(かいりつ)を説き、一切の煩悩(ぼんのう)を断じ尽くした阿羅漢(あらかん)という聖者になることを目的としています。これに対して大乗教の中でも、華厳経(けごんぎょう)を所依とする華厳宗、方等部(ほうどうぶ)から発した真言宗、淨土宗、禅宗など、般若部(はんにゃぶ)の教理をもとにした三論宗(さんろんしゅう)など、これらは経典がそれぞれ違うわけですから、当然教義や修行、目的、教主がすべて異なっているのです。

まして「唯有一仏乗(ゆいういちぶつじょう)」といわれる法華経はそれ以前の四十二年間の教えとは比較にならない深遠(しんえん)な教理と偉大な仏の利益(りやく)、そして真実の仏身が説き現わされたものです。その目的も、法華経以前の経教では、三乗(さんじょう)すなわち声聞(しょうもん)を目的とする者、縁覚(えんがく)を目的とする者、菩薩(ぼさつ)になることを目指す者をそれぞれ認めて、それに見合った教義と修行を別々に説いていたのですが、法華経に至ると、今までの三乗を目的とする教えは方便(ほうべん)であり仮りのものなので、すべてこれを捨てよ、信じてはならないと釈尊自らが戒められ、一仏乗(いちぶつじょう)すなわちすべての人が仏の境界(きょうがい/境涯)に至ることこそ真実の目的であると教示されました。

このように宗教と言っても宗派によって本尊も教義も目的もまったく異なっているのです。もしあなたが「宗教」という大きな意味で、目的が「救済」ということだから、どれでも同じだというならば、それはあまりに大雑把(おおざっぱ)な考え方だというべきでしょう。それはあたかも「学校」はどこも「教育」を目的にしていることは同じだからといって、小学校でも大学でも自動車学校あるいは料理学校でも、どこへ通っても同じだということと同じです。
宗教の選択が人間の幸・不幸にかかわる大事であることを知れば知るほど、このような無責任で粗雑な判断は当を得たものでないことがわかると思います。

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