他の信仰をしている人へ 他の信仰をしている人へ

【第三節】信仰を持たない人へ


5. 現実生活の幸福条件はお金が第一ではないか


私たちが日常生活を営むうえで、衣・食・住の全般にわたってお金がたいへん重要で便利な役割を果たしています。物品の価値がお金に換算できることはもちろん、人間や機械の労力・能力そして生命までが金銭で贖(あがな)われています。
そのために、お金をすべてに先行して価値あるもののように思い、幸福条件の第一に挙げる考えの人は少なくありません。
しかしどんなに貴重なお金であっても、所詮(しょせん)は人間社会によって産み出された「物」であり、生活上の手段のひとつにすぎないのです。言い換えれば、生きている人間そのものが主体者で、金銭は人間によって考え出された流通上の約束ごとのひとつであるということです。

これを間違えて、人間がお金に使われたり振り回されるところにとんでもない悲劇が生ずるのです。たとえば、お金をけちけちとためて満足な食事もせず、結局ためたお金を使うことなく餓死した老人がいました。
また遺産をめぐる親族間の争いが高じて殺人事件に発展した例、サラ金苦においつめられて殺人や強盗に走る例もあれば、一家心中の例などお金をめぐる悲惨な事件は毎日のように報道されています。
これはお金というものが、私たちの生活に大きな比重を占めている証しでもありますし、生死にかかわるほど大きな影響力をもっている証左でもあります。と同時にこれらの事例から、同じお金であってもそれを使う人間によって幸にも不幸にもなることがわかります。つまり、お金は生活する上に必要なものですが、またお金によって不幸を招くこともあるということなのです。
ここに主体者である人間を確立しなければ、真実にお金も財産も正しく生かされないという道理を知るべきなのです。

日蓮大聖人は、
「蔵(くら)の財(たから)よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり」(崇峻天皇御書・御書1173頁)
と仰せられています。
私たちにとって大切な財宝はいくつかありますが、お金などの蔵の財よりも、健康な身体が大切であり、それよりも大切な宝が人間の根本ともなる心の財なのです。
お金は、現代の幸福になる条件のひとつであることに違いはありませんが、それが幸福のすべてではありません。根本にある心の財を正しい信仰によって磨き、福徳に満ちみちた人間になったとき、はじめて蔵の財(お金)にも恵まれ、それを正しく自在に使いこなしていけるのです。

せっかくためたお金や財産を不幸や悲劇の種にするか、幸福の種にするかは、その人の心と福徳によって決まります。
物心両面にわたる幸福な人生を築くためにも、まず正しい仏法に帰依し、信仰に励むことから出発しなければならないことを知るべきでしょう。

←前の項目  目次  次の項目→