真実の仏法を知るために 真実の仏法を知るために

【第一節】信仰に反対する人へ


5. 信仰は意志の弱い人間のすることだ


一つの例として、戦国武将と呼ばれる人たちの中には、何かしらの信仰を持っていた人たちがいます(武田信玄の諏訪明神信仰、上杉謙信の毘沙門天信仰、毛利元就の念仏信仰など)。果たしてこうした武将たちは、意志の弱い人たちだったのでしょうか。
意志の強い人とは、ひとつの目的に向かって、種々の障害があろうとも、それを乗り越えて行く努力ができる人のことをいい、目的に向かうことは同じでも、途中で挫折してしまったり、またひとつのことに長続きしない、移り気な人が意志の弱い人といえると思います。
しかし、目的の違いや環境の違いによって難易の度合いもありますから、いちがいに、あの人は意志の強い人、弱い人と決めつけるわけにはいきません。また、意志が強いと思っている人であっても、人の心というものは常に変化してゆくものです。周囲の環境の変化によって変わってゆくのが、人間の心なのです。
したがって、その変わりやすい自分の心を中心として、その心の変化のままに思い思いに行動してゆくならば、それは、ちょうど羅針盤のない船のように、どこへ行きつくのか見当もつきません。常に右往左往していなければなりません。

日蓮大聖人は、
「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(曽谷入道殿御返事・御書794頁)
と、自分の心をすべての依りどころの基盤とするものではなく、正しい教法を心の師として、弱い自分に打ち勝つべきであると教えています。

なかには、何事に対しても消極的で、常に何かに頼っていこうとする人がたまたま宗教に救いを求める姿をとらえて、「信仰は意志の弱い人間のすることだ」という人もいます。
しかし、たとえ意志が弱いといわれるような人であっても、真実の宗教である日蓮大聖人の教えによって種々の困難を克服していくならば、これほどすばらしい道はありません。
事実、意志の弱さや、病魔や、さまざまな宿業(しゅくごう)による困難を、妙法の信仰によって乗りこえた体験を持った人たちが、現在社会のあらゆる分野で活躍し、大聖人の仏法によって、大きくその境涯(きょうがい)を開いています。
このような現実社会の中で人材として蘇生(そせい)していく姿こそ偉大な仏法の力を証明するものであり、信仰は意志の弱い人間がすることだときめつけるのは、とんでもない誤りです。

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