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【第二節】他の信仰をしている人へ


10. 自分の気に入った宗教が一番よいと思う


平成の時代に世間を騒がせたオウム真理教の信徒たちは、麻原教祖に洗脳されて、ある者は殺人者となり、ある者は見せしめのために殺されました。
またアメリカにおいては、人民寺院を標榜(ひょうぼう=主張)する新興宗教の教祖の教えによって、集団生活をしていた千名近い信者が、ことごとく自殺して果(は)てるというすさまじい事件もありました。

こうしたことは極端な例ですが、誤った思想や宗教の恐しさを如実に象徴したものといえます。
人はかたよった思想や邪宗教にとりつかれてしまいますと、その教えに熱中するあまり、人を人とも思わず、人の命すら自分たちの集団の論理で平気で葬(ほうむ)ってしまうのです。
思想や信条、ことに宗教という人間の生活規範にかかわる大切なものは、何よりも明るく清々しく健康的な理念で、うら打ちされていることが必要です。人々を心の底から躍動させる歓びにあふれたものでなければなりません。

洋服や食べ物ならば、自分の好きなものを選べばよいのですが、自分の人生や家庭、生活に重大な影響を持つ宗教の場合は、その根本たる本尊や教義の内容を正しく取捨選択することが大切です。
宗教の正邪・勝劣(しょうれつ)を知るためには、少なくともその宗旨が何を本尊(ほんぞん)とし、何を信仰の対象としているかということを、まず尋(たず)ねる必要があります。
また本尊とともに、その宗教の教義が正しいと判断されるためには、一切の人々が過去・現在・未来の三世にわたって救済されるのみならず、地獄界から仏界(ぶっかい)に至る十界(じっかい)のことごとく生きとし生けるもののすべてが、根本的に救われる道理と法門が解き明かされていなければなりません。

日蓮大聖人は、
「同じく信を取るならば、又(また)大小権実(だいしょうごんじつ)のある中に、諸仏出世の本意、衆生成仏の直道(じきどう)の一乗をこそ信ずべけれ。持(たも)つ処(ところ)の御経の諸経に勝(すぐ)れてましませば、能(よ)く持つ人も亦(また)諸人にまされり」(持妙法華問答抄・新編297頁)
と仰せられています。

信仰を志すならば、好ききらいで判断するのではなく、もっとも勝れた本尊と教義のもとに誓願の尊さと修行の正しさを教示された宗教を求めるべきです。
そして永遠性や普遍性にとみ、広大無辺の功徳(くどく)の備わった世界一の宗教を持つべきです。

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