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【第二節】他の信仰をしている人へ


7. 他の宗教で幸福になった人もいるのではないか


私たちの周囲には、さまざまな宗教や信仰によってそれなりの幸せを感じて暮している人もいるようです。しかし人は幸福そうに見えていても、その実体はわからないものです。
外見は大邸宅に住み、社会的にも恵まれた地位にありながら、非行や障害のある子供を持って、苦労している人もあり、家庭内の不和や、親族間の財産争いに明けくれている家もあります。
また、現在は一時的に満足できても、明日の確かなる保障は、どこにもないのです。

したがって、他の宗教を信じて確かに幸せになったなどと軽々に結論を下すことはできません。また、「積善(せきぜん)の家には余慶(よけい)あり」ということわざがあるように、その家の過去の人々の善業が、今の人々の身の上に余徳となって現われている場合もありましょう。
信仰には、確かに現世の利益(りやく)がなくてはなりませんが、反面、その一時の小さな利益のみに眼がくらんではならないのです。
たとえば、ある宗教を信じ、高名な霊能者などに相談を持ちかけ、少しばかりよいことがあったり、商売が上向いたことがあったばかりに、その宗教や霊能者に執心(しゅうしん)して、真実の仏法の正邪や、正しい因果の道理に則った判断ができなくなってしまうようなものです。

他の宗教で幸福になったと思う人も、大概はこうした人々であって、いわば一時の低い利益に酔いしれているようなものです。厳しい言い方をすれば、浅薄な宗教を信ずるということは、より勝れた根本の教えを知らず、結果的には最勝の教えに背くということであり、その背信の罰(ばち)をのがれることはできません。
ちょうど、悩みや苦しみをお酒によってまぎらわしたり、麻薬の世界に一時の楽しみを求めた人たちが、その悦楽から抜け出せず、結局、アルコール中毒や、取り返しのつかない廃人となってしまうように、他宗の小利益に執する末路には大きな不幸、すなわち、最高・最善の仏法に背く大罰が待ちうけているということを知らなければなりません。
つまり、いつとはなしに身心ともにむしばまれた、地獄のような生活に堕してしまうのです。

日蓮大聖人は、
「当(まさ)に知るべし、彼(か)の威徳(いとく)有りといへども、猶(なお)阿鼻(あび=地獄)の炎をまぬかれず。況(いわ)んやわづかの変化(へんげ)にをいてをや。況んや大乗誹謗(ひぼう)にをいてをや。是(これ)一切衆生の悪知識なり。近付くべからず。畏(おそ)るべし畏るべし」(星名五郎太郎殿御返事・御書366頁)
と説かれており、他宗を信ずることによってもたらされる現象は、けっして功徳(くどく)とはならず、むしろ、正法への帰依(きえ)を妨げ、不幸へと導く悪知識であると仰せです。

幸福の条件のひとつには、現在の生活の上におけるさまざまな願望の充足が挙げられますが、人間にとって、最高の幸せはなんといっても、過去・現在・未来の三世(さんぜ)にわたる、ゆるぎない成仏の境界(きょうがい/境涯)であって、真の幸福とはここに極まるものなのです。そして、この三世にわたる成仏は、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の大法を離れては、絶対にありえないのです。

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