法華講では、僧侶(指導教師)の指導をもととして信行に励んでおり、御講(おこう)や勉強会などで僧侶の法話を聞く機会が多いことは事実です。
宗門の僧侶は、御講や勉強会などの際には、信徒にさまざまな機根(きこん)の人がいることを配慮して、すべての聴衆が理解できるよう、常に心を砕(くだ)いて法を説いています。

釈尊は法華経『法師品(ほっしほん)』に、
「此の法華経、最も為(こ)れ難信難解(なんしんなんげ)なり」(法華経325頁)
と仰せられ、仏教のなかでもっとも深遠(しんえん)な教理(きょうり)が説かれている法華経は、信ずることも理解することもむずかしい、と教えられています。

末法の御本仏日蓮大聖人が説き明かされた仏法は、釈尊が説かれた法華経よりも、さらに深い法義なのですから、初信(しょしん)の人が日蓮正宗僧侶の説法を聞いて、むずかしく感ずるのは当然のことです。
しかし、日蓮大聖人の仏法は、大御本尊を信ずる一念によって成仏が叶(かな)う教えであり、僧侶は信徒の信心を深めるために法を説くのですから、聴聞(ちょうもん)する法華講員に「一言(いちごん)一句でも理解しよう」との強い求道心(ぐどうしん)があるならば、必ず命に響くものがあるはずです。

日蓮大聖人は『新池(にいけ)御書』に、
「何(なに)としても此の経の心を知れる僧に近づき、弥(いよいよ)法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし」(御書1457頁)
と仰せられ、僧侶の説法を聴聞して信心に励むことの大切さを御教示されています。

かつて池田大作は、御法主日顕上人の御説法について、
「全然、また難しい教義、聞いたって解んないんだ。誰も解らないんだ、ドイツ語聞いているみたいにね」(平成2年11月16日・第35回本部幹部会スピーチ)
と発言をしましたが、これは、仏法の奥義(おうぎ)を拝聴(はいちょう)しようとする信心を失った姿であり、増上慢(ぞうじょうまん)という以外にはありません。

なお、あなたが「僧侶の話より、学会幹部のほうが、おもしろくてわかりやすい」というならば、学会幹部の話は日蓮大聖人の仏法を、自分たちの都合にあわせて解釈し、深淵(しんえん)な教義を低い次元に歪曲(わいきょく)して池田礼讃(らいさん)に結びつけているのですから、そのように思うのも無理からぬことです。
しかし、それらは成仏という仏法の目的を見失ったものであり、会員を地獄に突き落とす邪義異説(じゃぎいせつ)以外のなにものでもないことを知るべきです。

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