あなたのいう「隷属(れいぞく)」とは、どのような意味でしょうか。
「隷属」という言葉は本来、下級の者が上級の者の指揮・監督を受けて、家来(けらい)のように付き従うことを意味します。日蓮正宗の信徒である法華講員が、日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、本門戒壇(ほんもんかいだん)の大御本尊を礼拝(らいはい)し、唯授一人(ゆいじゅいちにん)の血脈(けちみゃく)を継承される御法主上人を合掌礼(がっしょうれい)をもって敬(うやま)い、指導教師である僧侶を師弟相対のうえから尊敬することは、決して「隷属」などというものではないのです。

日蓮大聖人は、
「日蓮が弟子檀那(だんな)等自他彼此(じたひし)の心なく、水魚(すいぎょ)の思ひを成して異体同心(いたいどうしん)にして南無妙法蓮華経と唱へ奉(たてまつ)る処(ところ)を、生死(しょうじ)一大事の血脈とは云ふなり」(生死一大事血脈抄・御書514頁)
と仰せられ、大聖人の仏法を奉(ほう)ずる僧侶と信徒は、分け隔(へだ)てなく、心を合わせて信心に励むべきことを御教示されています。

また、第九世日有(にちう)上人は『化儀抄(けぎしょう)』に、
「貴賎(きせん)道俗の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何(いず)れも同等なり、然(しか)れども竹に上下の節の有るがごとく、其(そ)の位をば乱(みだ)せず僧俗の礼儀(れいぎ)有るべきか」(聖典973頁)
と御指南されています。これは、信心のうえにおいては本来、個々の身分や僧侶と信徒の差別はなく平等であり、そのうえで、僧俗の秩序と役割をわきまえて、互いに尊敬し、礼を尽くすべきであると教えられたものです。

現在、法華講は、日蓮大聖人の貴(とうと)い御精神を承継(しょうけい)されている御法主上人の御指南のもとに、僧俗が共に手を携(たずさ)え、異体同心して自行化他の信心に励んでいます。
「法華講は奴隷」「宗門に隷属」などは、宗門・法華講の麗(うるわ)しい僧俗和合の姿を妬(ねた)む創価学会のでまかせにすぎません。

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