創価学会では「大聖人は生前に法名(ほうみょう)を授与されたことがあっても、亡くなった人に戒名(かいみょう)を授けた例はない」などといい、さらに、「宗門ではこれらを金儲(もう)けの道具にしている」と主張しています。
しかし、「信徒に対して生前に法名(戒名)を授与された日蓮大聖人が、亡くなった人には戒名を与えない」という創価学会の理屈は、一般常識から判断しても、実におかしな話です。

創価学会では、大聖人が「亡くなった人に戒名を授けた例はない」といいますが、それは御書の記述にそのような例が見られない、というだけのことであって、大聖人を信奉(しんぽう)する喪主(もしゅ)が、亡き肉親の法名を大聖人に願い出ることは当然のことであり、大聖人がその願いを受けて法名を授与されることも当然あったはずです。

日蓮大聖人の教義・信仰・化儀(けぎ)の一切を継承された第九世日有(にちう)上人は、後代(こうだい)の宗門僧侶の規範(きはん)の書として『化儀抄』を著(あら)されました。その中で、
「当宗の経を持(たも)つ人二親(ふたおや)をも当宗の戒名を付けて、又仏なんどをも当宗の仏を立つる時…」(聖典981頁)
と仰せられ、後代の僧侶に対して信徒の亡き親に法名を授け、位牌(いはい)や塔婆(とうば)を立てて供養するよう御指南されています。
したがって、宗門の上代(じょうだい)においては、すでに僧侶が信徒に対して法名(戒名)をつけていたことは明らかです。

また、塔婆についていえば、創価学会は「大聖人が塔婆を立てて供養されたこともない」といっています。しかし、日蓮大聖人は『中興入道御消息(なかおきにゅうどうごしょうそく)』に、
「去(みまか)りぬる幼子(おさなご)のむすめ御前の十三年に、丈六(じょうろく)のそとば(卒塔婆)をたてゝ、其(そ)の面(おもて)に南無妙法蓮華経の七字を顕(あら)はしてをはしませば(中略)過去の父母(ふも)も彼(か)のそとばの功徳によりて、天の日月の如(ごと)く浄土をてらし、孝養(こうよう)の人並びに妻子は現世には寿(いのち)を百二十年持(たも)ちて、後生(ごしょう)には父母とともに霊山浄土(りょうぜんじょうど)にまいり給はん」(御書1434頁)
と仰せられ、塔婆の功徳を説かれると同時に、
「此(これ)より後々の御そとばにも法華経の題目を顕はし給へ」(同頁)
と御教示されています。また、『草木成仏口決(そうもくじょうぶつくけつ)』には、
「我等衆生(しゅじょう)死する時塔婆を立て開眼(かいげん)供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」(御書522頁)
とも仰せられています。
これらの御文を拝(はい)しても、後々の門弟に対して、法華経の題目を顕(あらわ)した塔婆をもって回向するよう御指示された日蓮大聖人が、御自ら塔婆を建立されたであろうことは想像に難(かた)くありません。むしろ「大聖人は建立(こんりゅう)されなかった」などという主張のほうが道理に合わないことは、誰の目にも明かではありませんか。

このように、日蓮大聖人が仰せられる塔婆供養の尊い意義に則(のっと)って、古来、宗門の僧侶は真心を込めて塔婆を建立し、回向供養しているのです。
それに対して「金儲けの道具にしている」といい放って恥じない創価学会は、まさに自らの卑(いや)しい根性を露呈(ろてい)しているとしかいいようがありません。
創価学会のゆがんだ卑俗(ひぞく)な目から見れば、教師・医師・弁護士・研究者など、あらゆる人々がその技能や資格を、「ただ金儲けの道具にしている」ということになります。 |