創価学会員の皆さんへ/第七章 日蓮正宗に疑問を感じている創価学会員に/釈尊は「僧侶は本来、葬儀に携わるべきではない」と説いたというが

サイトマップ
正しい宗教と信仰 HOME お問い合わせ
  信仰に反対する人へ
他の信仰をしている人へ
信仰を持たない人へ
迷信・俗信・占いなどを信じている人へ
正しい信仰を求めている人へ
正しい宗教とはなにか
日蓮正宗に疑問を感じている創価学会員に  
 
創価学会員の皆さんへ

邪宗教退治の百禍繚乱
日蓮正宗の信仰
ご意見・お問い合わせ
このサイトについて
リンク
サイトマップ
HOME → 創価学会員の皆さんへ → 第七章 → 釈尊は「僧侶は本来、葬儀に携わるべきではない」と説いたというが
釈尊は「僧侶は本来、葬儀に携わるべきではない」と説いたというが、宗門はこれに違背しているのではないか
創価学会では、釈尊が弟子たちに「僧侶は葬儀にかかわってはならない」と語ったとして、
「僧侶が葬儀を執(と)り行うことは仏教本来の在(あ)り方ではない」(大白蓮華・平成14年8月号113頁)
と主張しています。その主張を裏づける経典を創価学会は明確にしておりませんが、仏教学者の中村元(なかむら・はじめ)氏などが、小乗経典の『遊行経(ゆうぎょうきょう)』を解説するなかで、
「釈尊の言葉として、『アーナンダよ。お前たちは、修行完成者の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ』」(仏教講座・遊行経下510頁)
と記述していることはたしかです。

しかし、同じ小乗経典の『無常経(むじょうぎょう)』には、
「一?芻(いちびっしゅ)の能(よ)く読経する者を請(しょう)じ、法座に昇りて其(そ)の亡者の為(た)めに無常経を読ましめよ」(国訳一切経・経集部12−59頁)
とあり、死者のために?芻(比丘(びく)/僧侶)が読経(どきょう)して弔(とむら)うことが説かれています。
また、『浄飯王(じょうぼんのう)涅槃経(ねはんぎょう)』には、
「浄飯王の命終(みょうじゅう)するや、?(おさむ)るに七宝(しっぽう)の棺(ひつぎ)を以(もっ)てす。仏と難陀(なんだ)と、前に在(あ)り」(国訳一切経・目録事彙部2−351頁)
とあり、釈尊と弟子の難陀尊者が、浄飯王の葬送(そうそう)に立ち会ったことが説かれています。
これらのことからも、釈尊が修行僧に対して、葬儀に携わることを禁じたなどということはあり得ないのです。まして創価学会がいうような、「僧侶が葬儀を執り行うことは仏教本来の在り方ではない」などということを、釈尊が説かれるはずはありません。

いずれにしても、これらの経文は小乗仏教のものであり、自己の悟(さと)りのみを求める小乗経の修行者にとっては、自行を優先することは当然であり、その意味で他人の葬儀に携わらなくてもよい、とする経文も見られるのです。
これが大乗仏教、ことに法華経の教えに至れば、自行化他の両面にわたる修行が説かれるのですから、法華経を行ずる僧侶が、生きた人々を導くと同時に、死者を成仏に引導(いんどう)することは当然なのです。

日蓮大聖人も、信徒の願い出によって死者の回向供養(えこうくよう)をなされたことは、御書の随所(ずいしょ)に拝することができます。その例を挙(あ)げれば、文永2年3月に南条時光殿の父君(ちちぎみ)南条兵衛(ひょうえ)七郎殿が亡くなったとき、大聖人は鎌倉からはるばる駿河(するが)上野の地に下向(げこう)され、故人に「行増(ぎょうぞう)」との戒名を与えられて、墓前で回向供養をなされました。
これについて『南条後家尼(ごけあま)御前御返事』に、
「法華経にて仏にならせ給(たま)ひて候(そうろう)とうけ給はりて、御(おん)はかにまいりて候(そうら)ひしなり」(御書741頁)
と仰せられています。また、富木入道(ときにゅうどう)殿が亡き母君の遺骨を首にかけて、身延(みのぶ)の大聖人のもとを訪れ、追善供養(ついぜんくよう)を願い出ています。
そのときの様子について『忘持経事(ぼうじきょうじ)』に、
「教主釈尊の御宝前(ごほうぜん)に母の骨を安置し(中略)随分(ずいぶん)に仏事(ぶつじ)を為(な)し、事故無く還(かえ)り給ふ」(御書957頁)
と仰せられています。

また、第二祖日興上人は、信徒の曽禰(そね)殿に宛てた書状に、
「市王殿(いちおうどの)の御うは(乳母)他界(たかい)御事申ばかり候はず、明日(みょうにち)こそ人をもまいらせて御とぶらいひ申し候らはめ」(歴全1−152頁)
と、曽禰殿の母君の逝去(せいきょ)に際して、弔いのために門弟を遣(つか)わすことを述べられています。
このように、日蓮正宗では宗祖日蓮大聖人以来、葬儀や法事(ほうじ)に当たって、僧侶が導師(どうし)を務め、引導・回向をしていたことは明らかです。
迷い苦しむ衆生を救うことが僧侶の使命なのですから、生者死者にかかわらず、僧侶が御本尊のもとに儀式を執行することは、当然なのです。
したがって、日蓮正宗における僧侶を導師とする葬儀の在り方が、釈尊の教えに背(そむ)くなどということは断じてあり得ないのです。むしろ、小乗経典の一文を振りかざして宗門攻撃にやっきとなっている創価学会こそ、いっそうのこと小乗教団にくら替えしたほうがよいのではないでしょうか。

なお、創価学会は「宗門では、僧侶ぬきの葬儀は堕地獄(だじごく)といっている」と吹聴(ふいちょう)していますが、これは創価学会が、宗門からの「通告文」の一部を歪曲(わいきょく)して作り上げた言い掛かりです。
宗門から創価学会に宛(あ)てた「通告文」には、
「創価学会独自に僧侶不在の葬儀を執行するならば、それは下種三宝(げしゅさんぼう)の意義を欠く化儀(けぎ)となり、決して即身成仏の本懐(ほんがい)を遂(と)げることはできません」(大日蓮・平成3年11月号76頁)
とあります。すなわち、創価学会の友人葬などは、下種三宝に背き、正法の僧侶に怨念(おんねん)をもって執行する儀式ですから、決して即身成仏はできないということです。
要するに、大御本尊と唯授一人(ゆいじゅいちにん)の血脈(けちみゃく)に随順(ずいじゅん)した日蓮正宗の法義に則(のっと)った葬儀でなければ、成仏は叶わないということです。

←第七章21   創価学会員の皆さんへ(総目次)   第七章目次   第七章23→
HOME信仰に反対する人へ他の信仰をしている人へ信仰を持たない人へ迷信・俗信・占いなどを信じている人へ
正しい信仰を求めている人へ正しい宗教とはなにか創価学会員の皆さんへ邪宗教退治【百禍繚乱】日蓮正宗の信仰
ご意見・お問い合わせこのサイトについてリンクサイトマップ
※当サイトに記載されている文章はご自由に転載していただいて結構です。ただし画像の転用はご遠慮くださいますよう、宜しくお願い申し上げます。