池田大作は、昭和22年8月24日、創価学会幹部であった小平芳平(こだいらよしへい)によって折伏され、日蓮正宗へ入信しました。
池田は『人間革命』のなかで、戸田会長との最初の出会いのとき、あたかも自分が「地涌(じゆ)の菩薩(ぼさつ)」であるかのような即興詩(そっきょうし)を詠(よ)み、その後、入信を決意したと記していますが、それは自分を美化するための作り話です。

実際は、池田自身が次のように語っています。

「学校時代の友人に誘われて創価学会の本部へ行きました。その友だちは哲学のいい話があるがこないか、とさそったのです。私は友人と二人で行ったのですが、三、四十人もいたでしょうか。五時間くらいもそこで締(し)めあげられたのです。南無妙法蓮華経は嫌いだったので、ずいぶん反対したのですが、理論で破れて信仰しなければいけないということになってしまったのです。負けたのでシャクにさわってしかたがない(中略)家に帰っても三日間はおがまずにほっておきました。三日目にものすごい雷が鳴って、私の上ばかりでゴロゴロ鳴って私ばかり狙っているように思ったので、そのとき思わず南無妙法蓮華経と口をついて出ました」
「前の信者さんたちが牢獄へいったということが気になりました。全部の宗教に反対するから必然的に弾圧される。その時はどうしようか、寝ても覚めても考え、やめるなら今のうちがよいと考えました。」(小口偉一編『宗教と信仰の心理学』〈昭和31年7月発行〉に載った池田大作発言)

「折伏されたのは、前の本部です。前の本部は会長先生が事業をなさっていらっしゃった二階の八畳と六畳の二間でした。(中略)そこで多くの広宣流布の人材が毎日会長先生の御講義を聞いたんです。私はそこで教学部長から折伏されたんですよ。」
「一応信仰したけれどずい分悩みました。『えらいことをやっちゃったな、一生、南無妙法蓮華経と唱えるのか、みんな気違いだと思うだろうなあ…』などと、ずい分苦しみました。」(『聖教新聞』昭和32年10月18日付)

「ちょうど十五年前に、小平教学部長と、それから矢島尊師に連れられて、ちょうど日淳上人様の勤行ご導師をいただいて、たった三人だけの御授戒でした。それで私は、真ん中にすわらされてしまって、勤行がはじまったけれども、またひじょうに長い勤行で(笑い)、びっくりしてしまいました。それで、日淳上人より御本尊様をお下げ渡しいただくときに、もう足がしびれて、このまま一生信心するのでは、もうたまったものではない(笑い)と、もったいない話ではございますが、そのときは〔信心は結構でございますから、きょうは御本尊様はいただかないようにします〕と、そういうように申し上げたのです。その場所で。」(『聖教新聞』昭和37年2月20日付)

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